一部で評判がよいので、調子に乗って那須与一も描いてみました。有名なお話なのでちと緊張します。このお話、那須与一が「100%成功するとは言えません」と、自信満々ではないところが私は気に入っています。
2017年7月24日月曜日
2017年7月22日土曜日
与一@平家物語 その3 浅利与一義成 付、鎮西八郎為朝のこと
那須与一ではない与一の登場する場面を、さらにご紹介します。
『平家物語』巻十一 遠矢より
屋島の戦いに敗れ、ふたたび海にのがれた平家、とうとう壇の浦の戦いが始まります。
これはなんでしょう、弓の自慢合戦?ネーム入りの特注の矢が敵陣から飛んできました。
ちなみに那須与一の弓の長さは十二束三伏(じゅうにそくみつぶせ)。握りこぶし12個分と指の横幅三本分の長さです。1個の握りこぶしの人差し指から小指までの長さが「束」、1本の指の横幅が「伏」。多少の誤差はドンマイ。
この場面は、矢がどんどん長くなっていくのが、おもしろうございます。
平家方が射返した矢は、和田小太郎の後ろにいた三浦くんの腕に命中。三浦一族の者たちが、和田に文句を言います。怒った和田は敵の平家に八つ当たり。
じゃ、こんどは自分の矢を by新居紀四郎
源氏方、浅利与一が呼ばれて、新居の矢を射返せと命じられますが、
浅利与一の矢は新居紀四郎に命中。新居の「死生をば知らず」と平家物語にあります。
矢の長さは、各人の手の長さを基準に決めるといいますが、那須与一は「小兵といふぢやう」十二束三伏。身体は小柄であっても、十二束三伏の矢を射たと言う意味。十五束の矢を使っている浅利与一は、さぞや大男だったのでしょう。付 鎮西八郎為朝のこと
『保元物語』(新院御所各門々固めの事)によると、鎮西八郎為朝が「十五束」の矢を使っていたそうです。為朝は身長が七尺(約210㎝)に余るほど、左手の長さが右手の長さよりも四寸(約12㎝)長く、「生まれつきたる弓取(弓の名手)」と書かれています。さらに、五人張の弓を使っていたとあります。弓の強さは、弓の厚みに比例します。大勢の人が協力してようやく張ることができる強弓を、自在にあやつって矢を放つ、義経もそうですが、為朝にあこがれる武将は多かったようです。浅利与一も例外ではないでしょう。だって十五束の矢を使っているのですからね。
与一@平家物語 その2 金子与一親範
那須与一ではない与一の登場する場面をご紹介します。
『平家物語』巻十一 嗣信最期より
寒冷低気圧による暴風の中、大阪の渡辺津から無理矢理出帆した義経の一行は、阿波国(現在の徳島県)勝浦から大坂峠を越えて屋島に到着、うろたえて海上に逃げ出した平家と義経軍の戦さが始まります。
戦さの初めの悪口合戦も恒例になっていたようで、平家方の越中次郎兵衛盛嗣が大声で叫びます。
「さっき名のったかもしれないけど、よく聞こえなかったんですわ(ほんとうは聞こえている)今日の源氏の大将はどなたですかな」 …以下イラストにつづく
【なんとなくすばしっこいイメージがあるので、源氏はきつね、このころは泥の船に乗っているようなので、平家はたぬきのキャラクターを採用しました】
金子さんちの十一男、金子与一親範は、問答無用で矢を放つ恐いやつでした。
金子与一の放った矢は、越中次郎兵衛盛嗣の鎧の胸に、突き刺さったとか。盛嗣の運命やいかに。
与一は、那須与一だけではなかった
8月6日(日)総社市にある旧堀和平邸で「与一を語る」ワークショップを開催します。
暑い中ですが、颯爽とした金子あいさんの語りをお楽しみください。
与一といえば、屋島で扇の的を見事射落とした那須与一が有名です。
今回のワークショップも『平家物語』巻十一から那須与一の名場面を語ります。
でも、「与一」とは、「太郎」が長男、「次郎」が次男、「三郎」が三男・・「九郎」が九男、「十郎」が十男、そして、「与一」は十一男という意味です。生まれた順番を示しているので、男兄弟が十一人以上いれば、その家に「与一」がいるのは、普通のことです。男が十一人生まれることは、普通ではないかもしれませんが。
ちなみにウィキペディアには「与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称である」とあります。「余」にはあまるという意味がありますが、「与」にはあまるという意味はありません。(ここは研究者の性分で、ついこだわってしまいます)「与」は「と」、つまり「与一」は十「と一」と言う意味だと考えられます。結果は同じく十一です。
平家物語の巻十一から別の「与一」が登場する場面を、イラストで紹介します。→与一@平家物語 その2、与一@平家物語 その3を御覧ください。
那須与一のフルネーム(?)は那須与一宗高です。
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