2018年2月28日水曜日

平成30年4月3日4日 八重むぐらの会の主催イベントのお知らせ

倉敷美観地区・新渓園2日間イベント開催
昨秋10月に「平家物語~語りと波紋音~」(総社アートハウス)で共演した
打楽器奏者の永田砂知子さんと俳優の金子あいさん
今年の春は、4月3日は永田さんデー、4月4日は金子さんデー
すごい実力をソロで魅せていただきましょう!
春たけなわの倉敷美観地区にぜひおこしください。



2017年9月30日土曜日

総社アートハウスへの道案内(お車の場合)

総社アートハウス(岡山県総社市門田491)




リブ21第3駐車場付近



進行方向を見ると線路の踏切があります。



線路を渡ると前方に見える緑色の矢印の家が総社アートハウスです。玄関は右の方にあります。


総社アートハウス道案内(徒歩の場合)

総社駅をでて向かって左側に進みます。駐車場の入口を通り過ぎ、
 次の角を左折します。
 しばらくまっすぐ進んで行くと180号線の高架がみえます。高架の下をくぐって、広い駐車場の方へ右折して進みます。常に左側に桃太郎線(吉備線)の線路があるようにすすみます。
 オレンジの矢印のあたりにむかって、駐車場を横切ります。
 どんどん進みます。
 コンクリートの壁が見えます。
 線路とコンクリートの壁の間を進みます。左前方に踏切が見えます。
コンクリートの壁が途切れたところに踏切があるので渡ります。緑色の矢印の家が総社アートハウスです。玄関は右の方向です。

2017年8月9日水曜日

平家物語巻九 「一二之懸」早わかり

「一二之懸(いちにのかけ)」の「懸」とは、「言葉に出して言うこと」、万葉集にも用例がある、昔ながらの言葉です。とすると、平家物語のこの場面では、熊谷父子の一回目と二回目の名のりをいうのでしょう。

「武蔵国の住人、熊谷二郎直実、子息の小二郎直家、一の谷先陣ぞや」
「以前に名のッつる武蔵国の住人、熊谷二郎直実、子息の小二郎直家、一の谷先陣ぞや」
 (さっきも名のったが、熊谷二郎直実、子息の小二郎、一の谷の先陣だ!)

「以前に名のッつる」、さっきすでに名のったよな、とにかくオレらが一番だ、という気持ちがビンビンと伝わりますね。

よく知られたところでは、宇治川の合戦における佐々木高綱と梶原景季の先陣争い、高綱が「あ、馬に鞍を固定する腹帯が緩んでるよ」と嘘をついて、梶原を出し抜く場面がありました。(巻九 宇治川先陣)

味方もライバル!源氏のメンバーは一番乗りできれば何でもありのようです。なぜなら、一番乗りの手柄をあげた者には大きな恩賞があたえられるから。熊谷直実ももちろんそれを狙っています。「一二之懸」に名前が見えている武将では、平山季重も成田五郎も狙っています。

一の谷の平家の陣の近くで、夜が明けるまで待機していた土肥二郎実平はちょっと油断しました。義経の命令をうけたのは自分だからと安心していたのでしょう。(義経と土肥は一万騎〔誇張アリ〕の軍勢で一の谷を目指していましたが、義経は三千騎を率いて山手にまわり、土肥は七千騎を率いて岸にまわって一の谷を西から攻めることになっていました)ところが、熊谷父子は・・・・



戦いは夜明けとともに開始?そんなの知らん、とにかく名のるぞ BY熊谷直実 平家は無視します。


平山季重が追いついてきたので、もう一度名のっておこう。証人が必要だからな BY熊谷直実

戦いが開始されます。直家は「生年十六歳」と名のって勇ましく突撃。ところが左腕を射られてけがをします。この時のパパ直実のアドバイスは、「常に鎧づきせよ、うらかかすな、錣(しころ)をかたぶけよ。内甲(うちかぶと)射さすな」。昔の鎧は小さな金属の板(札=さね)をひも(緒)で繋いで作っていましたから、金属の板と板の間のすき間ができると、そこに矢が刺さって危険です。すき間を作らないように常に鎧をゆすります。ガチャガチャ。錣は、甲の鉢に、鎧と同じく、小さな金属の板(札)をひも(緒)で繋いで首を防御します。なんとも危険な実地教習ですね。

大きな手柄を立てることを熱望する熊谷直実は、平家の名のある武将と戦いたいと呼びかけます。平家はこりゃかなわぬと退却。源氏の馬はよく鍛えてあって元気いっぱいだけど、平家の馬は舟に乗っている時間が長くて運動不足だし、飼い葉もろくに食べさせてもらっていないしで、へろへろでした。



とにかく一番乗りしたい、大きな手柄を立てたいと脇目もふらずに突進していた熊谷直実ですが、彼の気持ちを大きく変えるできごとが、このあとあります。


いやーおもしろかったですねー
続きはまたこんど、さよなら、さよなら、さよなら(笑)




2017年7月24日月曜日

那須与一も描いてみた

一部で評判がよいので、調子に乗って那須与一も描いてみました。有名なお話なのでちと緊張します。このお話、那須与一が「100%成功するとは言えません」と、自信満々ではないところが私は気に入っています。
 







2017年7月22日土曜日

与一@平家物語 その3 浅利与一義成  付、鎮西八郎為朝のこと

那須与一ではない与一の登場する場面を、さらにご紹介します。

『平家物語』巻十一 遠矢より

屋島の戦いに敗れ、ふたたび海にのがれた平家、とうとう壇の浦の戦いが始まります。
これはなんでしょう、弓の自慢合戦?ネーム入りの特注の矢が敵陣から飛んできました。

ちなみに那須与一の弓の長さは十二束三伏(じゅうにそくみつぶせ)。握りこぶし12個分と指の横幅三本分の長さです。1個の握りこぶしの人差し指から小指までの長さが「束」、1本の指の横幅が「伏」。多少の誤差はドンマイ。

この場面は、矢がどんどん長くなっていくのが、おもしろうございます。
平家方が射返した矢は、和田小太郎の後ろにいた三浦くんの腕に命中。三浦一族の者たちが、和田に文句を言います。怒った和田は敵の平家に八つ当たり。

じゃ、こんどは自分の矢を by新居紀四郎
源氏方、浅利与一が呼ばれて、新居の矢を射返せと命じられますが、

浅利与一の矢は新居紀四郎に命中。新居の「死生をば知らず」と平家物語にあります。
矢の長さは、各人の手の長さを基準に決めるといいますが、那須与一は「小兵といふぢやう」十二束三伏。身体は小柄であっても、十二束三伏の矢を射たと言う意味。十五束の矢を使っている浅利与一は、さぞや大男だったのでしょう。

付 鎮西八郎為朝のこと
『保元物語』(新院御所各門々固めの事)によると、鎮西八郎為朝が「十五束」の矢を使っていたそうです。為朝は身長が七尺(約210㎝)に余るほど、左手の長さが右手の長さよりも四寸(約12㎝)長く、「生まれつきたる弓取(弓の名手)」と書かれています。さらに、五人張の弓を使っていたとあります。弓の強さは、弓の厚みに比例します。大勢の人が協力してようやく張ることができる強弓を、自在にあやつって矢を放つ、義経もそうですが、為朝にあこがれる武将は多かったようです。浅利与一も例外ではないでしょう。だって十五束の矢を使っているのですからね。

与一@平家物語 その2 金子与一親範

那須与一ではない与一の登場する場面をご紹介します。

『平家物語』巻十一 嗣信最期より

寒冷低気圧による暴風の中、大阪の渡辺津から無理矢理出帆した義経の一行は、阿波国(現在の徳島県)勝浦から大坂峠を越えて屋島に到着、うろたえて海上に逃げ出した平家と義経軍の戦さが始まります。

戦さの初めの悪口合戦も恒例になっていたようで、平家方の越中次郎兵衛盛嗣が大声で叫びます。
「さっき名のったかもしれないけど、よく聞こえなかったんですわ(ほんとうは聞こえている)今日の源氏の大将はどなたですかな」 …以下イラストにつづく

【なんとなくすばしっこいイメージがあるので、源氏はきつね、このころは泥の船に乗っているようなので、平家はたぬきのキャラクターを採用しました】






金子さんちの十一男、金子与一親範は、問答無用で矢を放つ恐いやつでした。
金子与一の放った矢は、越中次郎兵衛盛嗣の鎧の胸に、突き刺さったとか。盛嗣の運命やいかに。